銀塩日和

フィルム写真と冒険。そしてSDM生活。

仕事を止める思考と、思考に止められる仕事と。

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昨日の代々木公園散歩。



どうも、僕です。
ただのもやもやを書いただけのもの。

 
小さなことだけど、文章を書く・読むって行為からだいぶ離れてしまった。分かりやすく端的にブログの更新頻度に表れている。それは時間がなかったり、体力がなかったりといったところが原因だと思ってはいる。
家に帰れば疲れて意識を飛ばし、目を覚ましたら次の瞬間には家から飛び出る生活をしているのだから仕方ないと思わせて欲しい。。。が、何となく文章を書かなくなってから一日のパフォーマンスが落ちた感覚もある。

なんというか、淡々とペースを上げて仕事をこなしている間に、ノイズのように関係のないことが浮かんでは消え浮かんでは消えて思考を止めるのだ。
これまで遮断したり、別のチャネルとして出力できていた色々な考えたことが、出口を見失って昼間の業務の間に噴出してきているのではないかとも思う。

思考を止めないこと自体はずいぶん前から自分のすべきことだと教育をされてきた。それが出来ているという点では評価をしてもいいことだろう。
問題があるとすればそれが僕の手を止めることだ。仕事のベースは目に見えて落ちるし、吹き出るアイデアは不完全燃焼のままそのあたりを漂ったままになる。

(あふれてきた思考が邪魔になるような仕事のあり方自体を見直すべきだとも思うのだけど。仕事のあり方を見直そうと思うとこの職場の文化からひっくり返す必要がある。いずれにせよ裁量の少ない僕の手に余る問題だ。)

ブログだって(僕の仕事と性質は全く異なるけれど)手を動かすことには違いない。読書だって言ってしまえばそうだ。
手を動かし続ければ摩擦のような抵抗は掛からなくて、一度手を止めてしまえば手を動かし始めるのに負荷が掛かる。そのまんま古典力学のようだ。

自戒ではあるけど、日々書き留める場としてのこのブログ、そしてその思考の栄養としての読書は「今の」僕のパフォーマンス維持に十分寄与していたんだなぁなんてことを思った。

 



「今の」と書いた。そうきっと今の、なんだ。
上で書いたように、今僕が最大限出来ていることは、昼間の業務とそれ以外の思考が干渉しないように回し続けるだけのことでしかない。

もう一歩踏み込んだ姿を目指すなら、きっと(飯の種としての)昼間の業務と、夜に学んでいることやそれ以外の体験から吹き出してくる思考が連動するべきなのだ。
異なるジャンルの知識体験を繋げ大きな価値を生み出すことを、"人生で点と点を結ぶ"なんて表現した人がいた。それに近い姿を目指せたら、今よりは少し自分が変われるのではと思う。

30歳の足音が少し聞こえてくるところまでやってきて、ようやく「意識高い(系)」と揶揄されることにも慣れてきた。(職場でもプライベートでも)
まだまだ何も成していないただのワナビーではあるけども、何かを研ぐように、摩擦をなくすようにコツコツと手を動かし続けなければならないなと。

平日の夜にそんなことを思った。