銀塩日和

フィルム写真と冒険。そしてSDM生活。

「"貴方が活躍できる"ということは、科学的に立証される」というメッセージ

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どうも、僕です。
先日の大学院の授業が非常に面白かったので、そのときの感動を思いつくままに少しキーボードを叩いてみる。

認知科学」という学問領域をご存知だろうか。
僕ははっきり言って知らなかった。同様の質問をされたら「まぁそこそこ」という顔を貼り付けるものの、今となってはそのうすっぺらい行為も自分の残念さを助長するだけの行動で恥ずかしい。

週の頭、その認知科学の権威でいらっしゃる先生の講義を受ける機会があった。この大学院にもゆかりがあるその先生は、まさしく僕が学部生だった頃に塾長(学長?)として入学式で迎えてくださった方だった。
出身の学部が同じと言う事もあり、当時の僕の理解は「自然科学の領域でよくわからないけど成果を挙げたおじさん」だった。ああ、書いてみても思うがだいぶ残 念だな。入学式で頂いたスピーチも、そこに乗って一緒に頂いた情熱も全くこの身に残っていない。(後で資料を探して見ておこう)
いずれにせよ、多少なり縁のある方の講義ということで興味を持って講義に望んだ。

 


「今の世界情勢は幕末と同じ状態だと思うんです。」

先生は授業の前半でそう切り出された。曰く日本は、そして世界は今大きく転換をせざるを得ない状況のちょうど真ん中にあるということらしい。
例えばとある国では従来の共同体という形から脱出をしようという動きがあったり、世界一位の大国もこの先の政治情勢によってはその方針を大きく変えうる。国内で言え ば、経済状況の変化と科学技術の進歩の結果、人々の価値構造が大きく変わりかけており、それが人と人との関係性に、人と職との関係性に、人と学びとの関係性に変化の兆しとして表出している。

"従来どおり"では立ち行かなくなることがこれから先どんどん出てくることだろう。
今上手く行っているから、ではどこかで破綻が起こるかもしれない。

ではどうするか。

"従来どおり"を変えなければならない。

例えば教育のあり方を変えよう。知識を持つことそのものでは最早生き抜く力にはならない。知識を持ち、それを適切に使えなければならない。
例えば研究のあり方を変えよう。社会システムの中で予算を回すためにする研究に本質的な重要性はない。社会的な意義と問題意識から醸成される課題の設定をし、その人たちを組み込んだ社会システムを回していかなければいけない。
共通するキーワードは「主体性」だ。現代人に主体的に自分の課題を設定し解決しようとする「主体性」を持ってもらおう。

今はそのような活動に注力されているらしい。。。



などと、今活動されている内容の紹介だけで講義の最中あっけにとられてしまった。果たして僕の目の前に立っていたのは「自然科学の領域でよくわからないけど成果を挙げたおじさん」ではなかったか。
僕の勝手なステレオタイプで、自然科学に従事する人間は社会システムの問題に非常に関心が低い、というバイアスがあったのは認めた上で、ここまで人と社会のありように寄り添った講義をされる方だとは思っていなかったため、少し面食らった。

面食らうと同時に、この先生の考えていらっしゃることに非常に関心が沸いてきた。システム工学を始めの専門にされていたこの方が、何を思って専門領域を認知科学へ移されたのか、そして幕末を乗り越えるための活動に注力されるようになったのかを知りたいと思うようになったのだ。

授業も中盤になり、先生がこれまで研究をされてきた認知科学の全体的な説明になる。

認知科学とは人の知的な思考の仕組みを理解し、より発展させようという学問であるらしい。人間の頭をPCとしたとき、CPUとしての脳の働きの中では様々な 思考というソフトウェアが動いていることになる。しかしながら、ハードウェアとしての脳を解析するとどうも待ったく別の役割であるような計算を同じ領域で 担っていることもあるという。これはもうハードだけ(脳科学)、ソフトだけ(心理学)の話しではない。もっとメタ視点での理解が必要になるということで、 その様な領域を対象として学問が認知科学だ。その領域では情報システム科学の観点から人間の知的活動を扱うことになる。
人間の思考や心の動きを、情報科学的な手法で相対化し、解析をする、僕はそういう学問であると理解をした。

 

d.hatena.ne.jp


例えばこの学問の例として先生は「人間の学習」を挙げていた。
答えを知らない未知の問題を人間が解決する際に、どのような思考プロセスをたどるのか、心はどのような働きをするのか、それをモデル化する研究をご紹介いただいた。このような例を指して「なぜこのような研究をするのか?それは、認知科学は、人の能力を高める研究ですから」と仰っているように私には聞こえた。

お話を聞いて少し心惹かれた頃には、先生が挙げていた書籍を注文してしまっていた。手元に来次第心を弾ませて読んでみることにしよう。

問題解決の心理学―人間の時代への発想 (中公新書 (757))

問題解決の心理学―人間の時代への発想 (中公新書 (757))

 

 


最後に質疑応答の中でどうしても気になったことを伺ってみた。

「先生の興味関心範囲と、専門領域が"システム工学"⇒"認知科学・心理学"へとだんだんと移っていかれたというお話しに非常に惹かれる一方で、一つの疑問が浮かんだのですが。先生がそのようにご自身の専門領域を広げられていった理由といいますが、移っていく中でも一つの軸のようなものがありましたら、是非とも伺いたいのですが、よろしいでしょうか。」

すると、

「私は世のあらゆる人に、それぞれ方向性に差異はあるものの、みなそれぞれ活躍ができる能力があると考えています。これは道徳的な考えというよりは、心理学や認知科学を研究すればするほど、その様に考えられて仕方がない研究結果のようなものです。そのように思えたため、"世のあらゆる人の活躍を支援したい"というのが私の今の軸のようなものでしょうか。」

というお言葉を頂いた。一晩空けた後でも、学部の入学式で受け取った熱量とは段違いの密度の熱意を受け取ってしまったように思えて仕方がない。

 

思い込みかもしれないが、「君も活躍できる。それは科学的に立証が可能だ」と背中を押されたようなメッセージにも聞こえたのだ。

広いオフィスの端っこで、カタカタ商品企画の仕事をしている僕にだって、きっと今のままではいけないときが来るのだろう。そこに対してなにも危機感を抱かないわけではない。それは社会の変化のせいなのか、僕の価値観の変化のせいなのかは分からない。
しかしながら、その変化を迎えるのに武器がないのは少し心もとないとも思う。

折角関心が向いたのだから、「主体性」を発揮して認知科学を勉強してみるのもいいだろう。
なんたって認知科学は、人の能力を高める研究ですから。